岩手県

城跡20か所 【国指定史跡】​7か所 2021/3現在

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【国指定史跡】

所在地/二戸市福岡字城の内、城の外

比高/45メートル

分類/平山城

年代/明応年間(1492~1501)~寛永13年1636

​城主/九戸氏、南部氏

【歴史】

​ 天正19年(1591年)9月、豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍がこの城を包囲した。蒲生氏郷を主力とした井伊直政、浅野長吉、堀尾吉晴等の再仕置軍は5万ともいわれ、対する九戸政実は5000。この攻城戦の終了をもって豊臣秀吉の天下統一が名実ともに成された、歴史的舞台の地である。

​ 九戸城の現在の姿は、九戸一揆後に再普請され、南部氏の居城となった福岡城の姿である。九戸氏は天文(1532~)徐々に勢力を強めていったとみられる。

​天正18年の豊臣秀吉による奥州再仕置後、奥州各地で一揆が発生する。翌年九戸政実が隆起し、南部信直は前田利家を通じて上方に援軍を依頼する。9月4日に九戸政実は降伏する。主だった武将は、栗原郡の三迫で処刑された。

九戸城は改修後、南部氏の居城となり福岡城と改称した。福岡城は寛永13年(1636年)に廃城となった。廃城に伴い城内の建築物は取り壊され、盛岡城新丸御殿の用材として利用されたと記されている。

 

写真予定

 

【久慈市指定史跡】

所在地/久慈市大川目字新町

比高/30メートル

分類/平山城

年代/室町時代から戦国時代

​城主/久慈氏

【歴史】

久慈氏の出自については明確ではないが、中世後期には久慈郡の有力国人領主であった。糠部(ぬかのぶ)の九戸氏とは濃密に縁戚を重ねており、戦国時代末期の当主久慈政則は天正18年(1590)から19年(1591)に九戸政実に荷担して、南部信直派の葛巻氏と交戦。九戸城(二戸市)に籠城した後、豊臣秀次に投降し、栗原郡三迫において九戸政実や七戸家国らと共に処刑されている。

​久慈城の規模はさほど大きくはないが、保存状態が良好であり、久慈地方の国人領主の居城として重要な城跡である。

写真予定

【国指定史跡】

所在地/二戸市浄法寺町字八幡舘

比高/45メートル

分類/山城

年代/明応年間(1492~1501)~天正20年(1592)

​城主/浄法寺氏

【歴史】

浄法寺氏は畠山重忠の子孫といわれており、畠山重忠の弟重宗が二戸郡を賜ったが、嫡男が死去したため重忠の末子に跡を継がせ、家名も浄法寺氏としたとある。また「奥南落穂集(おうなんおちぼしゅう)によれば、畠山重忠の三男重慶が出家し奥州に下り浄法寺に住み着き、後に兵を起こしたが討たれ、その子供が浄法寺重基とされる。

浄法寺氏は戦国期には有力な勢力に成長し、松岡、太田、駒ヶ嶺、大森の諸氏はその一族といわれている。天正10年(1572)南部宗家の後継者をめぐる会議では「浄法寺修理」の名が見えることから、三戸南部の重臣の一人であったようで、戦国時代の終わりには5000石を領したと伝えられている。

【九戸一揆での動向】

天正19年(1591)の九戸一揆では、浄法寺修理重安は南部重忠家臣として参陣し、奥州再仕置軍に参加している。その後、一国一城令に基づく南部領内の城割が行われ、天正20年6月の秀吉の家臣持城破城令により浄法寺城は破却される。

慶弔5年(1600)の岩崎一木に参戦。冬の為一時中断するが、浄法寺氏は南部利直の命に背き、浄法寺に帰参したため勘気をこうむり領地を没収され家系も断絶した。

浄法寺修理重安の次男である松岡正吉は、明暦2年(1656)に浄法寺氏を再興する。

​今の浄法寺城は中世城館としては良港にその姿をとどめており、安比川流域の中心的城館として往時の姿がうかがえる。

 

写真予定

 

【国指定史跡】

所在地/宮古市千徳町

比高/60メートル

分類/山城

年代/16世紀頃

​城主/一戸氏

【歴史】

天正18年秀吉は、奥州仕置として南部信直に対し領内にある諸城の破局を命じた。この時に千徳城も破城した。

館主として一戸孫三郎とある。一戸とは一戸氏(一戸城主・現在の一戸町)の支流と考えられている。

一戸氏は三戸南部、九戸、久慈、八戸氏と並び勢力を誇った領主である。一戸を本拠に沿岸部の野田・千徳・八木沢・津軽石・江繋に支流を配したと考えられている。

​千徳城は遺構の状態からも地域を代表する城跡であったことが伺える。

写真予定

【国指定史跡】

所在地/雫石町山津田

比高/130メートル

分類/山城

年代/14~15世紀

​城主/不明

【歴史】

​高水寺城の斯波氏が一門を分知して雫石御所と呼ばれたが、天正14年(1586)南部忠直に攻略されて信直の直轄城となり、天正20年の城破りで廃城となった。

 

写真予定

【国指定史跡】

所在地/盛岡市内丸

比高/18メートル

分類/平山城

年代/14~19世紀

​城主/福士氏、南部氏

【歴史】

文治5年(1189)源頼朝の奥州合戦により、岩手郡地頭には甲斐の御家人工藤小次郎行光が着任した。行光は主に鎌倉にあって岩手郡には一族の代官を置いていたらしい。

室町時代から戦国時代の仁王郷不来方の領主は福士氏である。福祉の系譜によれば、甲斐国巨摩郡福士郷を出自とする甲斐源氏の一族であり、南部氏とともに奥州入りし、南北朝時代の三戸の南部信長が岩手郡工藤氏を平定し、岩手郡目代として南部一族の糠部彦次郎と福士伊勢守政長を不来方に駐在させたという。また、応永11年(1403)、南部義政が福士左京大夫親行と福士治部少輔秀行に不来方を与えたとしている。義政は三戸南部氏当主であるが、八戸根城南部氏の重臣にも福士氏が確認されるほか、閉伊郡山田の織笠氏も福士氏の流れをくむという。

利直は三戸城、福岡城(九戸城)、郡山城(高水寺城)を仮の居城としながら築城を継続した。

​盛岡城が藩主居城と定まるのは寛永10年(1633)南部重直(利直嫡子)の入城以後であった。

 

写真予定

 

【紫波町指定史跡】

所在地/紫波町古館字二日町ほか

比高/70メートル

分類/平山城

年代/14~17世紀

​城主/斯波(しば)氏、南部氏

【歴史】

​文治5年奥州合戦の後、斯波(紫波)郡は足利義兼に与えられ、一族が代官となって治めていた。鎌倉時代の後期、足利家氏は郡名を冠して斯波氏を興した。斯波氏の始祖である。建武新政の後、斯波家長は足利尊氏より奥州管領に任じられ、斯波郡に入った。

戦国時代の天文年間(1532~1555)には岩手郡へ進出し、一族を雫石御所(岩手郡雫石町)と猪去御所(盛岡市猪去)に配置した。天正16年(1586)、糠部から岩手郡、志和郡へと進出した南部信直が高水寺城を攻略し、奥州の名門斯波氏は滅亡した。

 

その後は南部氏の城代中野氏が在城し、寛永6年(1629)には南部利直が築城中の盛岡城の予備城として高水時城を補修して居住している。城は郡山城と名を変えて、盛岡城の支城の一つであったが、寛文7年(1668)台風による破損を契機に、郡山城を破却した。

写真予定

所在地/紫波町南日詰字箱清水

比高/ほぼ平坦

分類/居館

年代/12世紀前半~1189年

​城主/藤原俊衡(比爪俊衡ひづめとしひら)

 

【歴史】

​奥州藤原氏は平安時代末期(12世紀)に東北地方に大半の地域に勢力を有していた在地権力である。奥州藤原氏の権力拠点はいうまでもなく「平泉」であるが、第二の拠点「比爪」が存在する。比爪の地は現岩手県紫波郡紫波町南日詰付近に相当する。比爪の最後の当主「藤原俊衡」は平泉の藤原秀衡の従妹であり、平泉初代藤原清衡の直系の孫ということになる。

また、比爪館およびその周辺遺跡の考古学的調査からも、比爪の規模は居館と都市域を有する大規模なもので、出土遺物も質的に平泉と何ら遜色のないことが明らかになっている。血統的にも、遺跡・遺物からも比爪は「第二の平泉」と称することが妥当な格式と内容を有することが証明されている。

​奥州藤原氏勢力を平らげるには、比爪はどうしても避けて通られない重要拠点であったことを示している。

写真予定

【花巻市指定史跡】

所在地/花巻市花巻町

比高/?

分類/平山城

年代/1000年代、1591~1869年

​城主/安倍氏、稗貫氏(ひえぬき)、奥州藤原氏、北氏、南部氏

 

【歴史】

​〔稗貫氏〕

​武蔵の中条氏一族で、文治5年(1195)奥州合戦の軍功によって稗貫郡を与えられたと伝えられている。稗貫氏当主は代々出羽守を名乗る。

写真予定

所在地/北上市二子町坊舘・宿ほか

比高/60メートル

分類/平山城

年代/築城年代不明、天正20年(1592)破却

​城主/和賀氏

 

【歴史】

​「二子城」の名前は15世紀半ばからみられる。永享7年(1435)、和賀氏一族内の領地をめぐる争いは、北に境する稗貫市を巻き込み和賀群・稗貫郡が合戦の場となった。これに南部義政が奥州北部などの諸氏を動員、さらに斯波西御所・奥州探題大崎氏が出陣し翌年ようやく終息を見る。

​天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により和賀氏は所領没収・城地追放となるが、同じく仕置により所領没収となった稗貫氏と共に旧領回復を目指して和賀・稗貫一揆をおこし二子城を奪還した。しかし翌年の再仕置により蒲生氏郷勢に攻略された。天正20年二子城は破却された。

写真予定

所在地/遠野市遠野

比高/74メートル

分類/平山城

年代/14~19世紀

​城主/阿曽南部氏、盛岡南部氏、遠野南部氏

 

【歴史】

阿曽沼氏は藤原秀郷の末裔と伝えられ、鎌倉時代初期に遠野保(とおのほう)を与えられたという。最初は家臣宇夫方氏を代官として統治していたが、後に下野の領地から遠野に移転した。遠野の阿曽沼氏の拠点は横田城(遠野市光興寺)であったが、天正年間(1573~1592)の初期に、鍋倉山に移転したという。

天正18年(1590)阿曽沼広郷は小田原参陣がかなわなかったが、江刺氏と同様に南部信直の家臣として存続を許された。慶長5年(1600)、広郷は南部利直の軍に属して最上へ出陣したが、留守中に家臣の上野氏、鱒沢氏が背いて遠野を占拠したため、広郷は舅の居城世田米城(住田町)へ落ち延びた。以後世田米を拠点に、伊達政宗の援助を受けながら、三度にわたり遠野奪還を試みるが、南部利直に支援された鱒沢氏、上野氏の軍に敗れ、以後伊達氏に仕えたという。

​阿曽沼氏の失脚後、南部利直は上野右近、続いて毛馬内三左衛門を遠野城代としていたが、寛永4年(1627)に八戸根城(八戸市)の南部直義を1万石の知行で遠野に移転させた。中世の八戸を拠点とした根城南部氏は、これ以後遠野南部氏として遠野を統治した。

写真予定

【県指定史跡】

所在地/大槌町小鎚

比高/140メートル

分類/山城

年代/15~17世紀前半

​城主/大槌氏

 

【歴史】

​大槌城は、「聞老遺事」にもあるとおり、天険の地に築かれた城と言える。麓から仰ぎ見る城跡からは、時代の緊張感が伝わってくる。麓の市街地のどこから見ても城を見ることができ、地域のシンボルとしてはもちろん、「見える城」として地域の城跡、歴史を知るうえで貴重な遺産と言える。

写真予定

所在地/奥州市江刺区岩谷堂字館山

比高/70メートル

分類/平山城

年代/14~19世紀

​城主/江刺氏、溝口氏、桑折氏、母帯氏、猪苗代氏、古田氏、増田氏、藤田氏、古内氏、岩城(伊達)氏

 

【歴史】

中世前期の江刺氏については不明な部分が多いが、鎌倉時代後期から南北朝時代、奥州葛西氏の一族が岩谷堂城に居住し、江刺姓を名乗ったと考えられている。江刺氏は南北朝時代から室町時代に勢力を伸ばし、しだいに宗家の葛西氏とも対立するようになる。康安元年(1361)に江刺郡浅井で戦闘があり、、つづいて文明17年(1485)と明応4年(1495)にも江刺隆見と葛西政信が合戦におよんだ。この合戦により江刺隆見が敗北し、葛西政信の孫、葛西重胤が江刺市を継いだ。この数代後の当主江刺信時は主家の葛西晴信に勘当され、江刺重恒が継承している。天正18年(1590)豊臣秀吉は全国諸大名に小田原参陣を命じたが、葛西晴信は領内不穏のため小田原参陣を果たせず、奥州仕置によって所領を追われた。江刺氏もまた岩谷堂城を追われ、城には木村吉清の家臣溝口外記が入城したが、直後に起こった葛西、大崎一揆により戦死した。翌天正19年の奥州再仕置では大谷吉継が胆沢郡、江刺郡の検地に入り、水沢城と岩谷堂城の普請を行っている。江刺氏は浅野長政の取りなしにより、南部信直の家臣となることで命脈を保った。

葛西氏の中にも南部氏に仕官した一族がいた。江刺氏は稗貫郡新堀城(花巻市石鳥谷)、次いで和賀群土沢城(花巻市東和)の城主となり、南部氏領国の南辺を守備している。

​万治2年(1659)古内氏が口内要害(北上市)へ移転すると、伊達忠宗の子岩城宗則(伊達宗則)が入城した。岩谷堂要害屋敷を治めた。明治2年(1869)岩谷堂要害屋敷は廃され、新政府に引き渡された。

写真予定

【国指定史跡】

所在地/奥州市前沢区字白鳥舘・鵜ノ木田・浪洗

比高/20メートル

分類/山城(低地部)

年代/14~15世紀

​城主/白鳥氏

 

【歴史】

安永6年(1777)には、安倍頼時の子、白鳥八郎行任(ゆきとう)の居所であり、天正年中まで白鳥治部少輔(しらとりじぶのしょうゆう)が居住した。

白鳥舘遺跡は、中世を通じて、川湊として流通に関わった遺跡と言える。12世紀に平泉の川湊として利用が始まり、奥州藤原氏の滅亡後も廃絶することなく機能が引き継がれる。14世紀後半には低地から丘陵へと拠点を移し、城館が築かれる。15世紀には現在みられる城館に改築されるが、15世紀半ばには城としての機能を失い廃絶する。

白鳥舘遺跡は河川交通の要衡としての機能を失うことにより城館が廃され、一般的な村とかしていったと考えられる。

写真予定

【国指定史跡】

所在地/金ヶ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後

比高/70メートル

分類/平山城

年代/14~19世紀

​城主/江刺氏、溝口氏、桑折氏、母帯氏、猪苗代氏、古田氏、増田氏、藤田氏、古内氏、岩城(伊達)氏

 

【歴史】

鳥海柵は、11世紀中頃に陸奥国奥六郡(岩手県奥州市から盛岡市までの範囲)で起こった前九年合戦に登場する。本柵(城)の主は安倍頼良(のちの頼時)。

阿部氏は中央政府の政策転換により、胆沢城の中央政府の官人に代わって、奥六郡(胆沢、江刺、和我、斯波、薭縫(ひえぬい))を治めるようになった。その拠点として北上川流域に厨川柵や鳥海柵の複数の柵を築き、一族を配置した。柵のうち、石坂柵と小松柵は衣河関の外、つまりは奥六郡以南の多賀城管轄領であり、関の外まで勢力拡大したことが、国府多賀城と軋轢を生じ、前九年合戦が起こったとされる。

12世紀には藤原氏の平泉館を中心とした陸奥・出羽の支配が行われるようになり、13世紀は鎌倉の幕府御所を中心とした東国の支配へと発展していった。

​地域が主体となる中世の社会は鳥海柵から始まったといっても過言ではなく、地方分権の発祥の地は金ケ崎にあった。との考えがある。

写真予定

【金ケ崎指定史跡】

所在地/金ケ崎町永栄柏山館

比高/約38メートル

分類/山城

年代/13~16世紀

​城主/柏山氏

 

【歴史】

文治5年(1189)奥州合戦で、源頼朝が奥州藤原氏を攻め滅ぼし、葛西清重に陸奥国御家人奉行を命じ、岩手県南から宮城県北の五郡二保(ごぐんにほ)を与えた。葛西氏家臣として胆沢郡を治めたのが柏山氏である。柏山氏の由来は平姓千葉氏を祖先とし複数の説が伝わる。百岡城主となった次男胤広(百岡二郎)が柏山氏の祖とある。この常胤は頼朝が奥州出兵に使用する旗の準備を命じた千葉常胤であろうか。また「参考諸家系図」には平兼盛末裔明廣が頼朝から胆沢郡を賜って郡主となり上胆沢大森城(大林城か)に居城、柏山氏に改めたとある。

天文3年(1534)には三戸南部氏の金ケ崎進行を撃退し、天正9年(1581)には柏山氏の内紛で長男明国と次男明宗とが争って勝利した明宗が家督を継いでいる。天正18年、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻め滅ぼし、参陣しなかった者は

写真予定

​【国指定史跡】

所在地/平泉町平泉字柳御所

比高/3メートル

分類/平城

年代/12世紀

​城主/奥州藤原氏(藤原清衡ほか)

 

【歴史】

11世紀後半にみちのく北部で起きた前九年合戦、後三年合戦をへて覇権を握ったのは、平泉藤原氏の初代藤原清衡である。清衡は本拠地を江刺郡豊田舘(現奥州市江刺区)から平泉へ移した。12世紀初めのことである。以来、二代基衡、三代秀衡にわたり、仏教をもって人心を治めみちのくの平和と安定そして平泉の繁栄を築いた。しかし四代泰衡に継がれて間もなく源頼朝率いる鎌倉軍に滅ぼされ、わずか100年足らずで潰えた。

室町時代の幸若舞「八島」では源義経居館を「やなぎのごしょ」としている。近世では柳の御所は清衡基衡の居館であったが今は川の底になったと伝えていた。

​堤防バイパス事業に伴う大規模な発掘調査が昭和63年(1988)より開始され、館の姿を現した遺跡の内容は想像をはるかに越え、保存を求める声が高まった。

写真予定

【一関市指定史跡】

所在地/一関市大東町大原字川内

比高/60メートル

分類/平山城

年代/鎌倉時代?~17世紀

​城主/千葉氏系大原氏、伊達氏、田手氏

 

【歴史】

千葉氏は上総の御家人で、鎌倉時代に葛西氏領内に入った。磐井郡大原(一関市大東町大原)は、内陸部と沿岸の気仙郡を結ぶ要地であり、鎌倉時代から胆沢郡の千葉氏系百岡氏の系統が根をおろし、大原氏となった。大原氏は室町時代から戦国時代には葛西氏配下の有力国人領主であり、磐井郡東山地域(現在の一関市河東地域)の旗頭として大きな勢力を保持していた。

​しかし天正18年(1590)の奥州仕置、翌年の再仕置で主家の葛西氏とともに改易され、勢力を失った。天正19年の再仕置では、豊臣重臣の石田三成が気仙城とともに本城に改修を加え、伊達政宗に引き渡している。その後伊達家家臣の田手氏が大原を所拝領して南東の麓に田手館を構えた。おそらくは、その後江戸時代の早い段階で破却されたものと推定される。

写真予定

所在地/一関市一関釣山

比高/60メートル

分類/山城

年代/戦国期?~19世紀

​城主/小野寺氏、留守氏、伊達氏、田村氏

 

【歴史】

東北新幹線一ノ関駅の南西方向にあり、磐井川南東側の釣山の頂部から山麓部が一関城である。別名高崎城とも呼ばれ、安倍氏の小松柵に擬定されたこともある。戦国時代末の天正年間の城主は葛西氏に仕えた小野寺道照(伊賀)であったが、道照は天正19年(1591)8月に糠塚の役で討ち死にしている。

​奥州仕置後一関は伊達領となり、城主は政景、伊達宗勝と続いた。天和2年(1682)、伊達氏一門の田村建顕が岩沼要害から移り、一関藩(仙台藩支藩)として明示はじめまで続いている。一関城は幕府の意向により山麓居館のみとされ、館山の使用は固く禁じられた。

写真予定

所在地/陸前高田市米崎町字館

比高/25メートル

分類/台地城

年代/15~16世紀

​城主/浜田(千葉)広綱

 

【歴史】

岬全体が葛西家中でも一際大きな勢力を誇った浜田(千葉)氏の居城米ヶ崎城である。

葛西氏が奥州に入部したのは、文治5年(1189)奥州合戦の結果、葛西清重が牡鹿郡石巻に入部し、平泉検非違使所司と奥州総奉行を兼ねたのが最初である。

​その後葛西氏は岩手県の南部から宮城県北部にあたる、胆沢、江刺、磐井、気仙、牡鹿の五郡と奥玉、黄海の二保を加えた広大な地域を所領とした。千葉氏は葛西氏と同じ平氏の末裔であり、鎌倉時代後期の14世紀、本吉郡馬籠(宮城県気仙沼市)から、気仙郡矢作(陸前高田市)に一族が分かれ、さらに矢作から高田へと一族が進出したとされる。この過程で千葉氏は高田氏を名乗り、天正年間の千葉広綱の代、さらに海辺の米ヶ崎城(島崎城)へと進出して浜田氏を名乗った。浜田市の勢力は本家の矢作氏を凌駕し、近隣の村落領主を従えて気仙の旗頭となっていた。

天正16年(1588)、浜田広綱は気仙沼、本吉郡に攻め入り、熊谷氏や本吉氏と交戦したが、葛西晴信の仲裁によって兵を引いた。しかし同年葛西氏に反してふたたび挙兵したため、葛西晴信によって鎮圧されるに至った結果浜田広綱は気仙旗頭の地位を剥奪されて蟄居(ちっきょ)し、代わって一族の矢作千葉氏が気仙の旗頭となった。この葛西領内の騒擾(そうじょう)は葛西晴信の小田原遅参の原因となった。この葛西領内の騒擾は葛西晴信の小田原遅参の原因となり、天正18年(1590)奥羽仕置で葛西氏は所領をすべて没収され、千葉氏もまた没落した。

写真予定

 

【歴史】

豊臣秀吉が死去、徳川家康が幕府を開く時代を迎える。南部信直の後お継いだ利直(2代藩主)・重直(3代藩主)はそうしだ時勢によく対応し、三代将軍家光からも本領安堵を得て、10万石に及ぶ版図を確立した。寛永11年(1634)のことである。その地域は現在の岩手県を中心に、青森県・秋田県にもわたっているが、藩都が置かれた盛岡、南部家発祥と縁の深い八戸は特に栄えた。

幕府の強化に伴い、全国各地で藩の取りつぶしが行われたが、盛岡藩もその危機に襲われた。寛文4年(1664)9月、3代南部重直が世子を定めずに没したため、藩内に騒動が起こったのである。家督を定めずに藩主が死去すれば取り潰される危険があったが、結果的に幕府の裁定で重直の弟の重信に8万石与えられて本藩を相続するとともに、重信の弟の直房には2万石が分け与えられ八戸藩として分離独立することになった(その後、重信が積極的に新田開発に努め、天和3年(1683)に10万石に復帰)。

​文化5年(1808)には蝦夷警備の増強が幕府より求められた結果、20万石へと表高が改められ、幕末を迎えることになる。慶応4年(1868)戊辰戦争に当たり、「賊藩」とされた盛岡藩だが、明治3年(1870)時の藩主・利恭(としゆき)は版籍奉還を願い出て、その歴史にピリオドが打たれた。

​文化14年(1817)には20万石の南部藩が盛岡藩と名称変更を行っている。

〔鳥羽・伏見の戦い〕

慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は大政奉還を上表し、朝廷はされを許可した。この時点では徳川幕府自体の勢力はまだ残っていた。全国の総石高の4分の1の領地は依然として幕府にあったし、政権を返された朝廷側には確固とした新政府のビジョンがあるわけではなかった。

翌年正月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いであった。この戦いでわずか3日目に勝利した薩摩・長州軍は天皇を味方につけた。自らが「官軍」であり、旧幕府勢力は「朝敵」とされたのだ。江戸に帰った慶喜には追討令が出された。

〔楢山佐渡と西郷隆盛〕

​薩摩・長州を中心とする新幕府を容認しない勢力は抵抗を続けた。鳥羽・伏見の戦いを端緒とする戊辰戦争は、明治2年(1869)の箱館における五稜閣の戦いで旧幕府軍が敗退するまで続く。

盛岡藩家老の楢山佐渡は西郷隆盛に会った際に、新政府を支持することはできないという判断をくだしたようだ。

「奥羽北越公議府」が設置された。次第に反薩長の拠点としての性格を強めていく。

​「奥羽北越公議府」の成立により仙台にいる九条総督の身に危険が迫った。その後盛岡に転陣した。20日ほど滞在した一行は秋田へ向かった。このころ秋田藩士と盛岡藩士が切られるという事件が起こった。

楢山佐渡に決断をゆだねようということになった。楢山佐渡は慶応4年(1867)同盟支持を説いた。盛岡藩は、佐渡の決断により秋田侵攻を開始した。

〔秋田戦争に敗れる〕

9月25日盛岡藩は戦いに敗れた。佐渡は戦争の首謀者としてとらえられ、東京に護送された。盛岡藩は「賊軍」の汚名を着せられて新しい時代を迎えることになった。なお、佐渡とともに捕縛されたのは作人館教授・江帾五郎、作人館助教・佐々木直作であった。

〔白石への転封令〕

12月17日、盛岡藩の領地が没収され、国の直轄地とされた。新たに長子南部彦太郎(利恭)は旧仙台領白石13万石に封じられ、加盟を継ぐことになる。

盛岡藩の人々は白石への転封の命を受け、明治2年5月から8月までに移るように通達を受けていた。旅費などは一切支給されず、自費での移住であった。困窮で旅費がなく、悲惨極まる道中であった。盛岡藩主利恭は版籍奉還を実施した。利恭は「白石藩知事」となった。

一方、盛岡を中心とする領民からは、南部の殿様との別離を惜しむ声が沸き起こっていた。藩政時代は荷政に苦しめられたが、7百年に及んで支配してきた南部氏への愛着が上回ったのである。領内からは「白石転封反対運動」が起こり、領内をあげての復帰嘆願書が出されている。

〔作人館と原敬〕

なかでも九戸在住の小田為綱は、遠路東京までかけつけ嘆願書を差し出す熱心さであった。後に小田為綱は、明治3年に再興された作人館の教壇に立ち、原敬らを教えている。小田はかつて江戸で昌平黌に学んだこともあり、尊攘派志士たちとも交遊があった。世情を知っているだけに薩長を中心とする新政府の専横を許せなかった。作人館では「われわれは賊ではない。真の賊は薩長である」と説いた。その教えが、原敬の反骨心に火を点けたといってもよい。

そうした運動が実を結び、7月には故郷盛岡への復帰が認められるようになった。こうした嘆願運動は、あまりほかの藩には起きなかった。盛岡藩に特有の運動といってもよいだろう。

7月に白石藩知事に任命されたばかりの南部利恭は、8月に「盛岡藩知事」に任命された。白石への赴任はわずか1か月で終わったのである。

〔その後の盛岡藩と現代〕

明治5年「盛岡県」は「岩手県」と改称された。

明治22年盛岡は「盛岡市」となった。

明治5年1月15日、盛岡城は閉鎖され、城は兵武省の管轄となった。明治7年には廃城となり、陸軍省の用地となった。その過程で、城内の建築物のほとんどが取り壊されてしまった。

​明治23年、城跡は南部家に払い下げられた。明治39年、岩手県は南部家からの貸与を受け、公園としての整備を開始。同年9月15日、「岩手公園」として開園した。平成18年(2006)開園百周年を迎えたことを記念して、愛称を「盛岡城公園」に決めた。

盛岡藩の人材

 

東 次郎

故郷を出て上京し、新しい道を開こうとした盛岡藩出身者に立ちふさがったのは、藩閥の壁であった。薩摩や長州出身者を中心にして構成された明治政府では、盛岡藩出身者ははじめから活躍の舞台が限定されていた。比較的活躍の余地が残されていたのは、外交や軍事の分野である。盛岡藩出身者に外交官や軍人が多いのはそのためである。

盛岡藩の家老となり、秋田戦争の戦後の処理にあたった東次郎はもともと南部家一門だったが、父と対立したため定禄を没収され、南部と称することができなかった。後に南部次郎に戻ったが、次郎は外務省に入省、韓国釜山に在籍後、清の芝罘(現在の煙台いえんたい)初代領事となっている。明治19年(1888)に退官した。

原 敬

東次郎が外務省に入省したのは明治15年(1882)だが、同年原敬が外務省に入省した。二人は上海で会っている。

​安政3年(1856)2月9日に生まれた原敬は、12歳のとき盛岡藩降伏の悲哀を味わっている。14歳の時(明治3年)、再興された「藩校作人館修文所」に入り約2年間学んでいる。上京したのは15歳の時である。

司法省法学校を経て新聞記者となっていた原に、外交官としての道を開いたのは井上馨だった。明治16年11月、27歳で中国・天津領事となっている。農商務省、外務省通称局長、取調局長。その後外務省を退官している。

その後、原敬は大阪毎日新聞社社長を経て、政党政治家となり、大正7年(1918)9月29日第19代内閣総理大臣となった。

原敬は朝敵の汚名を雪ぐだけでなく、政党政治を確立し、民主化を促進した。原敬の下で、教育の向上、鉄道網の整備などによる地方の振興、選挙資格の拡大などがなされるのであり、いずれも従来の藩閥政府がなしえない政策であった。

その原敬が座右の銘にしていたのは、「宝積(ほうじゃく)」であった。宝積経にある言葉で、人に尽くして見返りを求めないという意味である。その言葉はまさに、原敬の生涯そのものを表している。

 

新渡戸稲造

教育者・思想家としてだけではなく、外交官としても活躍した新渡戸稲造にも、原敬の影があった。

国際連盟事務次長としてヨーロッパに稲造が旅たったのは原敬が総理大臣の時であった。(1920)

新渡戸稲造は(1862/9/1)盛岡に生まれた。祖父、父も勘定奉行である。伝の事業を継続しようとしたが、慶応3年(1867)稲造が5歳の時に父は亡くなる。

​明治4年8月、稲造は9歳で叔父・太田時敏を頼って上京し、芝桜町の盛岡藩邸に勤務していた太田の下から、共慣義塾に通い始める。やがて大学南校(東大の前身)で同郷の先輩・佐藤昌介(佐藤の父は盛岡藩出身)との出会いが待っていた。

佐藤昌介は大学南校から札幌農学校(現北海道大学)へ進み、やがて北海道帝国大学初代総長となる。稲造は追うようにして札幌農学校に入学→灯台からアメリカ・ペンシルバニア州のミドウィル大学に留学していた。その後ボルチモアのジョンズ・ホプキンズ大学に行き伴侶となるメリ-・エルキントンであった。

明治33年英語で「武士道」を刊行、世界的なベストセラーとなった。

一高(現東大前期課程)校長のとき、盛岡中学校(現盛岡一校)で訓話をしたことがある。

​その時の聴衆に宮沢賢治がおり、影響を受けたのではないかといわれている。

東条英教・英機

戦犯として処刑された第40代内閣総理大臣東条英機の父、東条英教は盛岡藩出身。後に陸軍中将までいく。

米内光政

明治13年3月2日盛岡に生まれる。盛岡中学校(現盛岡一校)を経て、海軍兵学校に進み、海軍大学校を卒業後に中国・旅順要港部の参謀となる。昭和11年には連合艦隊司令官長官となり、翌年2月林内閣の海軍大臣、4月海軍大将と順調に出世を遂げた。第37代内閣総理大臣になるのは昭和15年であるが、ずっと戦争の早期終結を主張し続けた。

鈴木善幸

第70代内閣総理大臣

​(1911年生まれ~2004死去)下閉伊郡山田町生まれ。

斎藤実

第30代内閣総理大臣

​岩手県は4人の総理大臣を輩出している(2021/3現在)

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