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【国指定史跡】
所在地/二戸市福岡字城の内、城の外
比高/45メートル
分類/平山城
年代/明応年間(1492~1501)~寛永13年1636
城主/九戸氏、南部氏
【歴史】
天正19年(1591年)9月、豊臣秀次を総大将とした奥州再仕置軍がこの城を包囲した。蒲生氏郷を主力とした井伊直政、浅野長吉、堀尾吉晴等の再仕置軍は5万ともいわれ、対する九戸政実は5000。この攻城戦の終了をもって豊臣秀吉の天下統一が名実ともに成された、歴史的舞台の地である。
九戸城の現在の姿は、九戸一揆後に再普請され、南部氏の居城となった福岡城の姿である。九戸氏は天文(1532~)徐々に勢力を強めていったとみられる。
天正18年の豊臣秀吉による奥州再仕置後、奥州各地で一揆が発生する。翌年九戸政実が隆起し、南部信直は前田利家を通じて上方に援軍を依頼する。9月4日に九戸政実は降伏する。主だった武将は、栗原郡の三迫で処刑された。
九戸城は改修後、南部氏の居城となり福岡城と改称した。福岡城は寛永13年(1636年)に廃城となった。廃城に伴い城内の建築物は取り壊され、盛岡城新丸御殿の用材として利用されたと記されている。
写真予定
【久慈市指定史跡】
所在地/久慈市大川目字新町
比高/30メートル
分類/平山城
年代/室町時代から戦国時代
城主/久慈氏
【歴史】
久慈氏の出自については明確ではないが、中世後期には久慈郡の有力国人領主であった。糠部(ぬかのぶ)の九戸氏とは濃密に縁戚を重ねており、戦国時代末期の当主久慈政則は天正18年(1590)から19年(1591)に九戸政実に荷担して、南部信直派の葛巻氏と交戦。九戸城(二戸市)に籠城した後、豊臣秀次に投降し、栗原郡三迫において九戸政実や七戸家国らと共に処刑されている。
久慈城の規模はさほど大きくはないが、保存状態が良好であり、久慈地方の国人領主の居城として重要な城跡である。
写真予定
【国指定史跡】
所在地/二戸市浄法寺町字八幡舘
比高/45メートル
分類/山城
年代/明応年間(1492~1501)~天正20年(1592)
城主/浄法寺氏
【歴史】
浄法寺氏は畠山重忠の子孫といわれており、畠山重忠の弟重宗が二戸郡を賜ったが、嫡男が死去したため重忠の末子に跡を継がせ、家名も浄法寺氏としたとある。また「奥南落穂集(おうなんおちぼしゅう)によれば、畠山重忠の三男重慶が出家し奥州に下り浄法寺に住み着き、後に兵を起こしたが討たれ、その子供が浄法寺重基とされる。
浄法寺氏は戦国期には有力な勢力に成長し、松岡、太田、駒ヶ嶺、大森の諸氏はその一族といわれている。天正10年(1572)南部宗家の後継者をめぐる会議では「浄法寺修理」の名が見えることから、三戸南部の重臣の一人であったようで、戦国時代の終わりには5000石を領したと伝えられている。
【九戸一揆での動向】
天正19年(1591)の九戸一揆では、浄法寺修理重安は南部重忠家臣として参陣し、奥州再仕置軍に参加している。その後、一国一城令に基づく南部領内の城割が行われ、天正20年6月の秀吉の家臣持城破城令により浄法寺城は破却される。
慶弔5年(1600)の岩崎一木に参戦。冬の為一時中断するが、浄法寺氏は南部利直の命に背き、浄法寺に帰参したため勘気をこうむり領地を没収され家系も断絶した。
浄法寺修理重安の次男である松岡正吉は、明暦2年(1656)に浄法寺氏を再興する。
今の浄法寺城は中世城館としては良港にその姿をとどめており、安比川流域の中心的城館として往時の姿がうかがえる。
写真予定
【国指定史跡】
所在地/宮古市千徳町
比高/60メートル
分類/山城
年代/16世紀頃
城主/一戸氏
【歴史】
天正18年秀吉は、奥州仕置として南部信直に対し領内にある諸城の破局を命じた。この時に千徳城も破城した。
館主として一戸孫三郎とある。一戸とは一戸氏(一戸城主・現在の一戸町)の支流と考えられている。
一戸氏は三戸南部、九戸、久慈、八戸氏と並び勢力を誇った領主である。一戸を本拠に沿岸部の野田・千徳・八木沢・津軽石・江繋に支流を配したと考えられている。
千徳城は遺構の状態からも地域を代表する城跡であったことが伺える。
写真予定
【国指定史跡】
所在地/雫石町山津田
比高/130メートル
分類/山城
年代/14~15世紀
城主/不明
【歴史】
高水寺城の斯波氏が一門を分知して雫石御所と呼ばれたが、天正14年(1586)南部忠直に攻略されて信直の直轄城となり、天正20年の城破りで廃城となった。
写真予定
【国指定史跡】
所在地/盛岡市内丸
比高/18メートル
分類/平山城
年代/14~19世紀
城主/福士氏、南部氏
【歴史】
文治5年(1189)源頼朝の奥州合戦により、岩手郡地頭には甲斐の御家人工藤小次郎行光が着任した。行光は主に鎌倉にあって岩手郡には一族の代官を置いていたらしい。
室町時代から戦国時代の仁王郷不来方の領主は福士氏である。福祉の系譜によれば、甲斐国巨摩郡福士郷を出自とする甲斐源氏の一族であり、南部氏とともに奥州入りし、南北朝時代の三戸の南部信長が岩手郡工藤氏を平定し、岩手郡目代として南部一族の糠部彦次郎と福士伊勢守政長を不来方に駐在させたという。また、応永11年(1403)、南部義政が福士左京大夫親行と福士治部少輔秀行に不来方を与えたとしている。義政は三戸南部氏当主であるが、八戸根城南部氏の重臣にも福士氏が確認されるほか、閉伊郡山田の織笠氏も福士氏の流れをくむという。
利直は三戸城、福岡城(九戸城)、郡山城(高水寺城)を仮の居城としながら築城を継続した。
盛岡城が藩主居城と定まるのは寛永10年(1633)南部重直(利直嫡子)の入城以後であった。
写真予定
【紫波町指定史跡】
所在地/紫波町古館字二日町ほか
比高/70メートル
分類/平山城
年代/14~17世紀
城主/斯波(しば)氏、南部氏
【歴史】
文治5年奥州合戦の後、斯波(紫波)郡は足利義兼に与えられ、一族が代官となって治めていた。鎌倉時代の後期、足利家氏は郡名を冠して斯波氏を興した。斯波氏の始祖である。建武新政の後、斯波家長は足利尊氏より奥州管領に任じられ、斯波郡に入った。
戦国時代の天文年間(1532~1555)には岩手郡へ進出し、一族を雫石御所(岩手郡雫石町)と猪去御所(盛岡市猪去)に配置した。天正16年(1586)、糠部から岩手郡、志和郡へと進出した南部信直が高水寺城を攻略し、奥州の名門斯波氏は滅亡した。
その後は南部氏の城代中野氏が在城し、寛永6年(1629)には南部利直が築城中の盛岡城の予備城として高水時城を補修して居住している。城は郡山城と名を変えて、盛岡城の支城の一つであったが、寛文7年(1668)台風による破損を契機に、郡山城を破却した。
写真予定
所在地/紫波町南日詰字箱清水
比高/ほぼ平坦
分類/居館
年代/12世紀前半~1189年
城主/藤原俊衡(比爪俊衡ひづめとしひら)
【歴史】
奥州藤原氏は平安時代末期(12世紀)に東北地方に大半の地域に勢力を有していた在地権力である。奥州藤原氏の権力拠点はいうまでもなく「平泉」であるが、第二の拠点「比爪」が存在する。比爪の地は現岩手県紫波郡紫波町南日詰付近に相当する。比爪の最後の当主「藤原俊衡」は平泉の藤原秀衡の従妹であり、平泉初代藤原清衡の直系の孫ということになる。
また、比爪館およびその周辺遺跡の考古学的調査からも、比爪の規模は居館と都市域を有する大規模なもので、出土遺物も質的に平泉と何ら遜色のないことが明らかになっている。血統的にも、遺跡・遺物からも比爪は「第二の平泉」と称することが妥当な格式と内容を有することが証明されている。
奥州藤原氏勢力を平らげるには、比爪はどうしても避けて通られない重要拠点であったことを示している。
写真予定
【花巻市指定史跡】
所在地/花巻市花巻町
比高/?
分類/平山城
年代/1000年代、1591~1869年
城主/安倍氏、稗貫氏(ひえぬき)、奥州藤原氏、北氏、南部氏
【歴史】
〔稗貫氏〕
武蔵の中条氏一族で、文治5年(1195)奥州合戦の軍功によって稗貫郡を与えられたと伝えられている。稗貫氏当主は代々出羽守を名乗る。
写真予定
所在地/北上市二子町坊舘・宿ほか
比高/60メートル
分類/平山城
年代/築城年代不明、天正20年(1592)破却
城主/和賀氏
【歴史】
「二子城」の名前は15世紀半ばからみられる。永享7年(1435)、和賀氏一族内の領地をめぐる争いは、北に境する稗貫市を巻き込み和賀群・稗貫郡が合戦の場となった。これに南部義政が奥州北部などの諸氏を動員、さらに斯波西御所・奥州探題大崎氏が出陣し翌年ようやく終息を見る。
天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置により和賀氏は所領没収・城地追放となるが、同じく仕置により所領没収となった稗貫氏と共に旧領回復を目指して和賀・稗貫一揆をおこし二子城を奪還した。しかし翌年の再仕置により蒲生氏郷勢に攻略された。天正20年二子城は破却された。
写真予定
所在地/遠野市遠野
比高/74メートル
分類/平山城
年代/14~19世紀
城主/阿曽南部氏、盛岡南部氏、遠野南部氏
【歴史】
阿曽沼氏は藤原秀郷の末裔と伝えられ、鎌倉時代初期に遠野保(とおのほう)を与えられたという。最初は家臣宇夫方氏を代官として統治していたが、後に下野の領地から遠野に移転した。遠野の阿曽沼氏の拠点は横田城(遠野市光興寺)であったが、天正年間(1573~1592)の初期に、鍋倉山に移転したという。
天正18年(1590)阿曽沼広郷は小田原参陣がかなわなかったが、江刺氏と同様に南部信直の家臣として存続を許された。慶長5年(1600)、広郷は南部利直の軍に属して最上へ出陣したが、留守中に家臣の上野氏、鱒沢氏が背いて遠野を占拠したため、広郷は舅の居城世田米城(住田町)へ落ち延びた。以後世田米を拠点に、伊達政宗の援助を受けながら、三度にわたり遠野奪還を試みるが、南部利直に支援された鱒沢氏、上野氏の軍に敗れ、以後伊達氏に仕えたという。
阿曽沼氏の失脚後、南部利直は上野右近、続いて毛馬内三左衛門を遠野城代としていたが、寛永4年(1627)に八戸根城(八戸市)の南部直義を1万石の知行で遠野に移転させた。中世の八戸を拠点とした根城南部氏は、これ以後遠野南部氏として遠野を統治した。
写真予定
【県指定史跡】
所在地/大槌町小鎚
比高/140メートル
分類/山城
年代/15~17世紀前半
城主/大槌氏
【歴史】